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2019/02/10

スリルの道は百年前から傑作

香港の繁華街にそろそろ制覇して、
郊外の様子を見てみようと思って、
大体皆さんが最初に思いついた場所はスタンレーでしょうか?
そして、
スタンレー行きバスの途中にダムの上に走る細い道を覚えていますか?
実は辺りは100年歴史もある法定遺跡群です。


全体の貯水湖群が4つに分けられて、
最も施工が早かった箇所が1883年からだそうです。
1917年、最後に完成された貯水湖である「大潭篤」ですが、
当時「アジアの第一ダム」と称賛されました。
今でも落成後まもない建てられた記念碑が健在です。
その横からダムの下への道があります。


ダムの下にはBBQ施設があり、
休日には賑わって談笑の音が途絶えることもなかった。
ダムの建築はコンクリートと花崗岩を併用して、
スタンレーと都心部に結ぶ道を支えて作られた。
本来は海まで面する設計だったが、
波の衝撃に耐えられない恐れがあったから、
今の場所に定められた。
この貯水湖の建設によって、
底に位置する村落「大潭篤村」が沈んだまま消えてしまった。


ちなみに、ダムの下にも取水ポンプ場や管理職員の寮まで建てられて、
香港映画「コールド・ウォー 香港警察 堕ちた正義」のロケ地にもなった。
別に映画ファンでもこの下り道でダムの迫力が十分感じられます。
若い人にとっては永遠のインスタ映えスポットにもなってるので、
決して危険な場所ではありません。
※できれば、付き添い友達と同行するのがベストです。


貯水湖群の21カ所の関連建築を巡るためのヘリテージトレイルがあります。
「大潭篤」貯水湖の反対方向に登って行けば、
大量の植民地時代の美学が目の当たりすることができます。
最初は平坦な道路、
水一本だけでも気軽にハイキングの気分を味わいます。


特に秋、冬の晴れる日に家族連れの人がゆっくり歩きながら、
風景を見たり、写真を撮ったりします。
途中でもピクニックやBBQできる場所が設けられています。
休日になると、
さらに混み合い、事前に場所を確保しておく必要があります。


貯水湖群の奥、トレイルのスタート点にある山中まで歩くには弱1時間、
しかも、坂道になっていくため、
体力に自信ない方が無理しないようにしてください。
めったり歴史建築に囲まれながら、
自然風景と生態も触れることができて、
さらにゆっくり散歩感覚で進めば、
きっと満喫できると思います。
このトレイルに秘められてるウンチク話や逸話はまだまだある、
貯水湖の建設チーフエンジニア【Daniel Jaffe】さんですが、
建設完了一年後壊血病を治療するために帰国、
その二年後に病死、享年46でした。
生前の貢献を記念するために、
湾仔にある道「謝斐道(Jaffe Road)」を命名した。


トレイルのスタート点にはもう一つ重要な歴史遺跡があります。
「群帶路里程碑」というひょっとしたら170年を超え、
道の名前か人を記念するためか地名の記載など諸説が紛らわしく、
当初「阿群」という香港人が瀑布湾に上陸したイギリス軍のため
地元しか知らない道で香港島の北岸までに案内してくれたことを記念して、
建てられた説が有力だった。


植民地警察のバッジや過去HSBC紋章のデザインもこの説をモチーフにした。
ビクトリアハーバーを背景にして、
西洋人らしき人物の二人と立ち並ぶ香港人らしきの「阿群」が絵となり、
上記の説を立証するように見え、
世間に「阿群帶路圖」と呼びます。

(インターネットから引用写真)

(インターネットから引用写真)

しかし、
1967年アバディーンの道端で「群帶路里程碑」が発見されたことによって、
今まで有力と言われる説を覆すようになった。
現在ほぼ真実が明らかに、
「群帶路」とは清の時代の歴史書類に記載された地名、
「群大路」という発音ほぼ「群帶路」と一致する場所ですが、
今のコーズウェイベイの辺りを指し、
植民地になった間もない頃に人口統計を行った時、
わずか50人の漁村でした。


発見された「群帶路里程碑」が現在香港歴史博物館に展示されていますが、
その後、ここにもう一個「群帶路里程碑」も発見されて、
表面に「Victoria 5 miles」、中文で「群帶路十八里」が刻まれ、
裏に「STANLEY 1 miles」、中文で「赤柱十四里」の文字がまだはっきり、
その後、薄扶林ダムにさらにもう一基同類の石碑が発見されたため、
道標的な役割として建てられたに違いない、
そして、「群帶路」という場所は当時植民地政府が香港島の北岸に、
作られた「ビットリア シティー」を指すことと確信されました。
その証拠となった歴史的な石碑が実際まだ触れれるものがここのみです。

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2018/08/23

都会中に少数のビルで作られた客家村

街づくり、施設の建設による、
原住民がやむを得ずに移動させることがここ数年からではなく、
植民時代からも既に行われてるものです。
その中に、
一村落が丸ごとで都会に移植させて、
まったく違和感のないように潜んでることは香港内には珍しいです。



ご紹介したいのがここ荃灣にある【石碧新村】です。
広東語をマスターした方なら、
この村の源がどこにあるかわかるはず。
英語は【Shek Pik New Village】です。
もうお分かりでしょうか?
そうです。ランタオ島にある【石壁ダム】の場所に拠点をする客家村です。


1950~60年頃、香港の高速発展と伴い、
水不足の問題も浮上してきます。
そこで植民地政府が当時ほぼ未開発のランタウ島の石壁谷を目に付け、
この辺りの【石壁郷】を証する場所にダムを建設することに決行しました。


当時建設を予定される場所に数個村落が合計200人程度を移動させるために、
植民地政府からよりランタオの奥にある【大浪湾】に移すか、
街づくり真っ最中の【荃灣】に移転するという二案があった、
最終的に村人が【荃灣】の移転を選択した。
その後、数個村落が丸ごとで都会に移植させて、
まったく違和感のないように潜んでることは香港内には珍しいです。


1960年11月、植民地政府が村人のための新住居が落成された。
村人もこの時期に合わせて引越の準備も整えた。
自身の荷物だけではなく、
村にある『洪聖古廟』の中の聖爺像まで背負って、
荃灣】の住居に移転をした。
村人が簡単に祀ることができるように今の建物の中に聖爺像が設置された。
外から見上げると、廟の代わりになる空間が高所にあります。



普段通り過ぎても何も違和感の村ですが、
まさに空中の廟がここにあるとは知らなかったはず、
なぜか最上階に設置しないといけないかどういうと、
神様が人間より下に置かれることが考えられない伝統があったためです。
香港の中でも極めて貴重な廟です。


ここは【石碧新村】と命名されたが、
すぐそばにある遊園地にこの当時を記録したような掲示版もみつかった。
【石壁】のままでした。
どころで、今取り残された建物が当時のすべてではなく、
90年代に入り、その内の二棟がデベロッパーから購入され、
その後、高層マンションに再建設されました。
今の【石碧新村】はあと何年で消えて行くだろう?


余談ですが、
既に【石壁ダム】の水底に昔の石壁郷】の遺跡が残留されたまま、
相当干ばつ時期になれば、
底に何かあるかみつかるウワサが既に広がっています。
実際はどうだろうね。

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2018/08/07

謎に包まれた未開拓の地~洪水橋

ますます香港魂のディープへの世界へようこそ!
今回ご紹介したいエリアは屯門と元朗の間にある「洪水橋」です。
近年高速発展の高級住宅地に挟まれてる地区に、
なぜか密集するような団地や開発計画はなかったと不思議がっていません?
そこから様々な諸説をはじめ、
確実な証言のない謎に包まれてるそうです。


そもそも、なぜ「洪水橋」に命名されたかどういうと、
洪水発生しやすい地区ためではなく、
いろな説の中に、
近辺にある「紅水山」から「紅水河」の下流に位置することであり、
屯門と元朗の間に走る道路の橋が「紅水橋」という命名からだそうです。
1948年香港の新聞にもこの地区の歴史を「紅水橋」として紹介された。
しかし、血のような水が川に流れたり、
その他の血につながる噂話によって、
やむをえず「洪水橋」に改名したらしいです。


その噂話の中で、
この地区に最も有名な村「丹柱村路」に関連しています。
日本に占領された時代に「丹柱村」の前になる場所で、
大量抗日の人々が殺害されて、
川に流されたり、土地に埋められたり過去によって、
今でも時々不可解なことが起きたり、交通事故が多発したりします。


だから道端でもよくこのような鎮魂碑や供養碑が見れます。
以前も多少ご紹介したと思います。
詳しくは➡【路上石碑のあれこれ】をご覧ください。
また、昔から土地開発に携わる人物の話による、
工事現場から掘り出した土壌に骸骨のようなものが発見されたようです。
それらの一連の本当かどうか噂話があるために、
地元の意志を尊重しながら、急激な発展を緩めてると勝手に解釈しています。


まさに噂話のおかげで、
この地区が今だ古き良き時代の面影がまだ残されいます。
閑散されてる街風景があっちこっちにも見かけます。
取材当日は平日でもあって、
行き来する人が村人ぐらいしかいませんでした。



昔の香港の村落のような店が「丹柱村路」に沿いに立ち並んでいます。
店内の人の気配もあまり感じませんでした。
時にはマージャンと笑い声が聞こえる程度で、
怖い話と対照的にのんびりしてる村です。


実は当日の取材目的はこの「永興士多」でした。
一見ごく普通の売店ですが、
情報による、茶餐廳もやられて、店内に漂うレトロな感もよさそうで、
一度訪ねてみたかったが、
まさかの休みです。
こういうお店の定休日はなかなか読めません。


道に進み、
雰囲気も少しずつ変わっていく、
お店から家の庭みたいな広々とした敷地が多くなり
それでも鳥肌が立つような暗闇の様子ではありません。


分岐道は多数があり、
行き当たりばったりのぶらぶらの散策にちょうどいいスケール、
途中に香港製造の調味料工場も発見した。
いきなりの見学は無理そうですが、
玄関口に販売コーナーがあって、
思わずなお土産をゲットするチャンスになるかもしれません。


村落の道だらけではなく、
時折大きな一本道に来たら、
綺麗な外貌を持つ小学の校舎が見れる、
香港有数の貴族住宅地「九龍塘」の学校と変わらない立派です。


ちゃんとした舗装された道の優雅さがまるで高級自宅地にいます。
一人でも十分安心歩けます。



再び細い道に入ると、
今度は廃墟状態になってる邸宅の姿が現れます。
こう見ても既に80年歴史があり、
地元警察の王灼氏から建てられたものです。


昔の地元の生活っぷりが垣間見える建築物ですが、
やっと三級歴史建築と認定されたものの、
現在のオーナーが再建計画を敢行すると決めて、
玄関だけでも独特な魅力を感じる建物が取り壊されるのが時間の問題です。
ぜひ見たい方はこちら⇓
住所:元朗洪水橋丹桂村338號(汽車修理場の近く)


取材したわずか数時間の中、
普段まったく注目してなかった香港の一角ですが、
思った以上深い歴史があって、
現代化に迫ってくる中にも本来の素朴さが失われてなく、
地元がいつも通りに生活してるところがまさに最大な見所です。


間違えなく香港を愛する人々の開拓余地ある場所、
地元食などまだ手に出してない悔いがあるので、
近いうちに再度訪れたい所にメモしました。
香港を知り尽くした方々、
ぜひ、ここまで制覇してみてください。



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2018/03/25

新界の誕生

イギリス植民地になるの前に、
「新界」という場所本来は存在していませんでした。
1842年、南京条約で清から「香港島」がイギリスに割譲した後、
1860年、北京条約で「九龍半島」も割譲しました。
のちに「新界」になる上記以外の領域、
1898年の展拓香港界址専条によって、
イギリスに99年間の期限で租借された。
つまり、九龍半島を東西に横切る【界限街】以北、
深圳河以南とそのほか233個の島を含めた領域です。
1937年、界限街以北~ライオンロック以南という新興市街地ですが、
イギリス植民地政府から「新九龍」と称するようになりました。
下記の当時植民地政府から発行した地図もこの名称で記載されています。


「香港島」、「九龍半島」、「新九龍」以外の領域に関して、
「新しい領土」を意味する英語「New Territories」で総称されまた。
広東語を訳すると、
「新界」という皆さんも聞き慣れてる香港地域の名称です。
そして、
そもそも「新界」にいる原住民ですが、
中国を統一した秦王時代の生活逸話が歴史書籍に記載されてるそうです。


今でも「新界」のいろな「囲村」に歴史的な遺跡、
当時君主からの贈り物などの記念物もみつかるはずです。
たとえば、この「元朗橫洲」に立地する「二聖宮」というお寺に、
清の康熙帝時代(1718年)に鋳造した大きな鐘が展示されることによって、
この辺りの原住民の歴史を証明する有力の裏付けになります。


「新界」に行くと、
下記写真のような三階建て家屋が多く見られるでしょうか?
香港では「丁屋」と呼ばれます。
実は生みの親は植民地政府でした、
1972年、「新界」で大規模な開拓を決行したものの、
原住民の協力を得ないと成し遂げないと痛感した結果、
年末に「新界小型屋宇政策」を実施した、
1890年代に父方が原住民と認められた人々の18歳以上の男子の子供には、
決められた土地内に一棟三階建て、
各層は700平方ftを超えない「丁屋」の建築権利が与えられます。
一生に一度のみですが、申請すれば、許可を下りてくれるようです。


この「新界」の原住民ならの「特権」に巡って、
政府とデベロッパーの間で近年に争議が起きているほか、
「新界」の原住民の「特権」が社会問題にもなっています。
なぜなら、
「新界」の原住民がいるほか、
「九龍半島」、「香港島」にもそれなりに原住民がいるのに、
なぜ「特権」はないかという素朴な疑問を持ってる人もいます。


返還前の植民地による解釈ですが、
1842年、1860年に結んだ条約では、
「九龍半島」、「香港島」をイギリスに割譲する形で、
租借とは違い、
原住民が自分の土地を強制に徴用したことに対しても反抗できない、
場所が分散されることと数少ない人数によって、
反抗しようがなかったことも考えられます。
「新界」の原住民が如何にイギリス植民政府を反抗したか、
過去元朗の錦田吉慶圍」に関する記事でも多少把握できるはず。
まさにこの違いによって、
「新界」の「特権」が生まれて、
ゆくに「新界」のあらゆる風習が保たれたり、
香港の多様性が見られる理由になったかもしれません。

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2017/08/07

青衣の発展に貢献した人達の村~涌尾村

40年前まだ孤島のような青衣ですが、(大昔は『春花落』と称されてる島)

船以外の交通手段は皆無でした。

そして、漁港から世界へアクセスするための通過点になり、

二十万人も密集されてる町になってるのが原住民の協力のおかげでした。

島内に重要な土地を拠点するいくつの村落が政府の説得を受け、

大移転を承諾したことによって、

ついに皆さんのご存知のような青衣に生まれ変わり始めました。


今回訪れたのが山腹にある「涌尾村」です。

囲村ではないので、

どこからでも入れそうな村作りで、

いきなりこの村を紹介するような壁絵で歓迎されます。


少しずつ進んでみると、

飲食店の裏に見える作業場が現れます。

よそ者にあまり警戒されていないようで、

まず一安心、さらに進もうと足が早まった。


すぐにも商店街のような通りの手前についたようです。

萌え萌えの看板だけでもそそられます。


わくわくしながら、ここのお店から入ってみます。

午後3時半すぎ、

地元だけの世間話の会しか行われてないみたい、

閑散としている店員さんまでその会を参加しています。


一杯でも飲んでみようと思ったが、

黒い雲が追われてるため、ゆっくりすることをやめて、

さらに道を進みます。

しかし、人の気配がどんどん感じなくなり、

平日の午後とは言え、

あまり元気なさそうな雰囲気が少し殺風景ですね、

普段の昼過ぎが大体こんな感じと下調べてわかったので、想定内でした。


村人に遭遇する前に、

鳥さんたちに出会ってしまった。

飼い主が見渡した限りいなかったため、

とりあえず、ご挨拶ぐらいしておきました。


途中、この村の役場のような建物にも見ました。

こちらもドアが閉まっています。


村の敷地内にグルグル回るうちにやっと空いてる売店を発見しました。

乾物屋さんのようです。


この閉まってる店の前の二つまな板が相当歴史あるだろう。

肉屋さんのものでしょうかね。


ここで村から少し脱出して、

300年以上歴史を持つ【天后廟】が近くに建てられてると聞いたから、

3分もかからない、別の村の中に、

小さいな【天后廟】が潜まれてると見つかった。

存在は300年以上があるが、二回に渡った移動、

三回の建て替えが行われたことによって、今の顔になった。

そこにある小さい池が必見、旅の疲れが癒されるかもしれません。


【天后廟】と別れた後に、

山の向い側に別のお寺を発見しました。

「伯公爺」を祀っているお寺、これまたしても規模小さくありません。

ちなみに、「伯公爺」とは土地神ような神様です。

寺巡りが好きな方なら、きっとこの山腹だけでも満足できると思います。


再び【涌尾村】に戻ったら、

目の前に村を創立する先祖様の「陳氏」の祖堂が二棟も建てられています。

こちらも扉がしっかり閉めてる、

祖堂はそう簡単に入る場所ではないですね。

話による、祖堂は【涌尾村】が大移転する前の模様のままで、

今の場所で再建された。


大移転の話ですが、

政府が当初【涌尾村】の住民の住んでた家の面積を応じて賠償したほか、

今皆さんがご覧になってる規格の三階建ての住宅も提供して、

住民以外、移転前に既にお店を経営されてる人に対しても、

同様の条件で説得しました。

結局、地元の人はもちろん、

かつて村人から愛されてるお店でも大移転できました。


史上の一番成功したと言われる大移転のおかげ、

老舗が老舗のままでしぶとく生息されるところで、

その美味しさの重鎮が今でも味わえることが幸せでいっぱいです。

その詳細は明日続きます。二十万人も密集されてる町になってるのが原住民の協力のおかげでした。

島内に重要な土地を拠点するいくつの村落が政府の説得を受け、◎◎

大移転を承諾したことによって、

ついに皆さんのご存知のような青衣に生まれ変わり始めました。


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