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2018/10/12

地元の食生活が垣間見える一軒~坤記腸粉

ミシュランガイドに載せられた香港B級グルメのお店、
腸粉を売りにする「合益泰小食」がきっかけで、
うるち米を原材料とした固形物を蒸して仕上げたという地元食が一躍有名に、
香港人だけではなく、
わざわざ食べに来る外国人も増えてるそうです。
子供の頃におやつや朝ごはんの存在としたものですが、
世界の舞台に立つようになるなんで夢にも思えいませんでした。
今回地元をはじめ、
香港人でも認められてるもう一軒の名店をご紹介したいと思います。


店の構えはまさに古き良き時代を象徴する小売店と変わらない、
目立つ看板もなければ、
店内は座れる場所も限られています。


看板メニューの【坤記腸粉】以外、
ひょっとして飲茶にもよく食べられる料理も提供されています。
当然腸粉を食べずに帰るわけには行きません。
4本で10HKドル、6本で12ドルという売り方なんですが、
男なら後者ですね。
まだたりなさそうであれば、
その場で焼売を追加することもできます。
それ以外の点心もあるので、
事前にチェックしておいた方がいいと思います。


訪れた日はちょうどランチピークの時間帯の前、
わりとゆっくり選んで注文できたが、
普段の昼はとても行列で、
お店の外までに立ち並ばれるぐらい大人気です。
そういう時は並びながら、
注文を決めた方がいいと思います。


ティックアウトもできるが、
お店がまだ空いてるので、
わたしは座ってじっくり味わうことにしました。
この山盛りのような腸粉と焼売は如何でしょうか?
滑らかは当たり前ですが、それより自家製のソースが秘密兵器だそうです。
胡麻ソース、甘いか辛いソースまでアクセントの役割を果たしています。
  

ソースにより、腸粉の食感、風味を引き出した、
一度味わてみたら、虜になる人が少なくありません。
また、注文した後にすぐ目の前に作り始めることもなかなか魅力、
お客さんと作り側のやりとりこそ腸粉に対するこだわりがわります。
どんなソースが多めに、どれがいらないかなどなどそれぞれ違います。
お客さんの希望に合わせた対応も小売店の強みと人情味です。


わたしが食べてる間にずっとこの手が止まることなく、
一人一人の注文を応えたお母さん、
単価が安いものばっかりなのに、
只管黙々と動いて、大変さが十分伝わってきた。
コツコツ働く香港人を見るだけで応援したくなりますね。


気持ちを込めて仕上げてくれたこともあって、
昔からあるべき腸粉の旨味を味わえるから、
わずかな時間でこの行列ができたわけです。
混雑を避けるために、
1時前か2時半以後の来店がおすすめです。


豆乳も購入して、店内に簡単な席で、
『大圍』を命名する由来となる『積存圍』の散策コースを計画してみて、
ひとときを過ごしてみてはいかがでしょうか?
意外と大圍は見所満載よ。


住所:大圍積富街石屋(積德里付近)
営業時間:0700~1900(年中無休)

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2018/08/23

都会中に少数のビルで作られた客家村

街づくり、施設の建設による、
原住民がやむを得ずに移動させることがここ数年からではなく、
植民時代からも既に行われてるものです。
その中に、
一村落が丸ごとで都会に移植させて、
まったく違和感のないように潜んでることは香港内には珍しいです。



ご紹介したいのがここ荃灣にある【石碧新村】です。
広東語をマスターした方なら、
この村の源がどこにあるかわかるはず。
英語は【Shek Pik New Village】です。
もうお分かりでしょうか?
そうです。ランタオ島にある【石壁ダム】の場所に拠点をする客家村です。


1950~60年頃、香港の高速発展と伴い、
水不足の問題も浮上してきます。
そこで植民地政府が当時ほぼ未開発のランタウ島の石壁谷を目に付け、
この辺りの【石壁郷】を証する場所にダムを建設することに決行しました。


当時建設を予定される場所に数個村落が合計200人程度を移動させるために、
植民地政府からよりランタオの奥にある【大浪湾】に移すか、
街づくり真っ最中の【荃灣】に移転するという二案があった、
最終的に村人が【荃灣】の移転を選択した。
その後、数個村落が丸ごとで都会に移植させて、
まったく違和感のないように潜んでることは香港内には珍しいです。


1960年11月、植民地政府が村人のための新住居が落成された。
村人もこの時期に合わせて引越の準備も整えた。
自身の荷物だけではなく、
村にある『洪聖古廟』の中の聖爺像まで背負って、
荃灣】の住居に移転をした。
村人が簡単に祀ることができるように今の建物の中に聖爺像が設置された。
外から見上げると、廟の代わりになる空間が高所にあります。



普段通り過ぎても何も違和感の村ですが、
まさに空中の廟がここにあるとは知らなかったはず、
なぜか最上階に設置しないといけないかどういうと、
神様が人間より下に置かれることが考えられない伝統があったためです。
香港の中でも極めて貴重な廟です。


ここは【石碧新村】と命名されたが、
すぐそばにある遊園地にこの当時を記録したような掲示版もみつかった。
【石壁】のままでした。
どころで、今取り残された建物が当時のすべてではなく、
90年代に入り、その内の二棟がデベロッパーから購入され、
その後、高層マンションに再建設されました。
今の【石碧新村】はあと何年で消えて行くだろう?


余談ですが、
既に【石壁ダム】の水底に昔の石壁郷】の遺跡が残留されたまま、
相当干ばつ時期になれば、
底に何かあるかみつかるウワサが既に広がっています。
実際はどうだろうね。

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2018/08/07

謎に包まれた未開拓の地~洪水橋

ますます香港魂のディープへの世界へようこそ!
今回ご紹介したいエリアは屯門と元朗の間にある「洪水橋」です。
近年高速発展の高級住宅地に挟まれてる地区に、
なぜか密集するような団地や開発計画はなかったと不思議がっていません?
そこから様々な諸説をはじめ、
確実な証言のない謎に包まれてるそうです。


そもそも、なぜ「洪水橋」に命名されたかどういうと、
洪水発生しやすい地区ためではなく、
いろな説の中に、
近辺にある「紅水山」から「紅水河」の下流に位置することであり、
屯門と元朗の間に走る道路の橋が「紅水橋」という命名からだそうです。
1948年香港の新聞にもこの地区の歴史を「紅水橋」として紹介された。
しかし、血のような水が川に流れたり、
その他の血につながる噂話によって、
やむをえず「洪水橋」に改名したらしいです。


その噂話の中で、
この地区に最も有名な村「丹柱村路」に関連しています。
日本に占領された時代に「丹柱村」の前になる場所で、
大量抗日の人々が殺害されて、
川に流されたり、土地に埋められたり過去によって、
今でも時々不可解なことが起きたり、交通事故が多発したりします。


だから道端でもよくこのような鎮魂碑や供養碑が見れます。
以前も多少ご紹介したと思います。
詳しくは➡【路上石碑のあれこれ】をご覧ください。
また、昔から土地開発に携わる人物の話による、
工事現場から掘り出した土壌に骸骨のようなものが発見されたようです。
それらの一連の本当かどうか噂話があるために、
地元の意志を尊重しながら、急激な発展を緩めてると勝手に解釈しています。


まさに噂話のおかげで、
この地区が今だ古き良き時代の面影がまだ残されいます。
閑散されてる街風景があっちこっちにも見かけます。
取材当日は平日でもあって、
行き来する人が村人ぐらいしかいませんでした。



昔の香港の村落のような店が「丹柱村路」に沿いに立ち並んでいます。
店内の人の気配もあまり感じませんでした。
時にはマージャンと笑い声が聞こえる程度で、
怖い話と対照的にのんびりしてる村です。


実は当日の取材目的はこの「永興士多」でした。
一見ごく普通の売店ですが、
情報による、茶餐廳もやられて、店内に漂うレトロな感もよさそうで、
一度訪ねてみたかったが、
まさかの休みです。
こういうお店の定休日はなかなか読めません。


道に進み、
雰囲気も少しずつ変わっていく、
お店から家の庭みたいな広々とした敷地が多くなり
それでも鳥肌が立つような暗闇の様子ではありません。


分岐道は多数があり、
行き当たりばったりのぶらぶらの散策にちょうどいいスケール、
途中に香港製造の調味料工場も発見した。
いきなりの見学は無理そうですが、
玄関口に販売コーナーがあって、
思わずなお土産をゲットするチャンスになるかもしれません。


村落の道だらけではなく、
時折大きな一本道に来たら、
綺麗な外貌を持つ小学の校舎が見れる、
香港有数の貴族住宅地「九龍塘」の学校と変わらない立派です。


ちゃんとした舗装された道の優雅さがまるで高級自宅地にいます。
一人でも十分安心歩けます。



再び細い道に入ると、
今度は廃墟状態になってる邸宅の姿が現れます。
こう見ても既に80年歴史があり、
地元警察の王灼氏から建てられたものです。


昔の地元の生活っぷりが垣間見える建築物ですが、
やっと三級歴史建築と認定されたものの、
現在のオーナーが再建計画を敢行すると決めて、
玄関だけでも独特な魅力を感じる建物が取り壊されるのが時間の問題です。
ぜひ見たい方はこちら⇓
住所:元朗洪水橋丹桂村338號(汽車修理場の近く)


取材したわずか数時間の中、
普段まったく注目してなかった香港の一角ですが、
思った以上深い歴史があって、
現代化に迫ってくる中にも本来の素朴さが失われてなく、
地元がいつも通りに生活してるところがまさに最大な見所です。


間違えなく香港を愛する人々の開拓余地ある場所、
地元食などまだ手に出してない悔いがあるので、
近いうちに再度訪れたい所にメモしました。
香港を知り尽くした方々、
ぜひ、ここまで制覇してみてください。



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2018/04/03

盆菜宴会から垣間見る新界の一面

香港人すら、なかなか本格的な盆菜宴会が参加できないのに、
運がよくて、知り合いの誘いがあって参加できた。
盆菜と言えば、
新界の原住民から先代から引き継がれた伝統料理の一つです。
その由来は様々の説がありますが、
13世紀南宋末期に、
『元』の軍隊に追われた朝廷の君臣らが香港まで南下した際、
新界に通りかかった時に、
村人たちに熱く迎え入れられた。
しかし、持ってる高級食材や珍味をもてなすための入れ物が足りず、
切羽詰った村人たちが大きな木製の桶で盛り合わせて差し出した、
のちに盆菜までに進化されるという話が最も有力です。


盆菜宴会が昼でも夜でも開催されることも、
開催側になると思いますが、
今回の参加させて頂いた宴会は夕方からです。
午後5時半に新界にある囲村までに案内されたときに、
既に数えきれないほどひとたちが集まられています。
やはり囲村の住民とその親戚をはじめ、
親交のある仲良しの友人などしかこの宴会を誘わないみたいです。
それ以外、
宴会に欠かせない余興を担当するプロたちです。
囲村とは言え、
かなり本格的な機械、スピーカー、ステージまで一通り整って、
アマチュア歌手までをお願いして宴会を盛り上げってます。


盆菜宴会のスタートがバラバラなことは一般的だそうです。
とにかく、テーブルごとで定員数が集まれば、
すぐでも始まれます。
まったく知らない他人ではない、
きっとどんたの知り合い、親戚という内輪の人間だから、
相席なんで全然気にすることはありません。
当日は埋まってる席と誰もいない席しか見分けなかった。
宴会参加者が次から次へに円卓を埋めていくから、
我々のもすぐスタットを切りました。


盆菜について、
過去に【盆菜とは?】に軽く紹介しましたが、
もう少し細かく説明したら、
出来上がるまでに三日かかるという昔からの記載があります。
初日は山へ薪とり、十分な薪はないと、十分のご馳走が作れない、
二日目は新鮮な材料を揃えに買い出し、
三日目は丸一日をかけて料理するというあの時代だからの必要な工夫です。


伝統の盆菜の構成ですが、
上からそれぞれの食材で六層に重ねられます。
上の三層はガチョウ、鶏肉、エビや海の幸の干物など、
下の三層は大根、にんじん、豚皮がよく使われます。
煮汁のうまみが最上層から下の各層にしみ込み、
吸い込みやすい食材が置かれる最下層が全部を吸収し、
食べる順によって、
うまみが増していくという意図だと考えれます。


盆菜の下にあるコンロですが、
冷めないように一応火を付け続けています。
昔ではなかった現代的な発明の良さも取り入れました。
円卓の皆さんの写真時間が終わったら、
一斉に箸を差し、
好きな食べ物を拾ったり、
飲みながら、おしゃべったりし始めます。
特別なテーブルマナーが入りません。
ただし、途中アマチュア歌手の歌声や爆竹の音など、
思い寄らない音が飛び交っている、
のんぴり会話することはなかなかできません。


ちなみに、
盆菜は元々野菜がほとんど入ってない料理で、
由来からの分析ですが、
新界にどこでもありそうな野菜を朝廷の君臣に食べさせるなんで、
あまり価値のない料理を食べさせると同様の発想で、
あえて入れてなかったという説があります。


ただし、現代人の野菜不足を解消するには、
勝手に野菜を追加したりする習慣も珍しくないようです。
会場にも自らこの辺の野菜を取って洗って、
皆さんに配り、
即席に煮って食べる人もたくさんいます。
僕も含めでした。


なかなか具がありすぎて、
食べ切れない盆菜ですが、
円卓の皆さんのペースが落ちて来ます。
その時に、目を疑う光景が目撃しました。
空に舞い上がる花火がノンストップで15分も続きました。
もちろんその規模がビクトリアハーバーで行う花火大会のと比べられない、
高い建物のない広い新界の囲村の空に余計キレイに映った。


あの瞬間、金融都市の香港にいる感じがしなくなった、
かつての農村の時代にいると彷彿させられた。
爆竹、花火をするなんで、
厳密に言うと法律に反するのに、
なんでここでできるか疑問が既にあります。
そこで『新界』だからできるというモヤモヤな答えで片づけながら、
究明しようがないまま現在に至っています。
植民地になって150年以上にもかかわらず、
かわらないものはかわらない、
特に『新界』、
かわらない理由が何か今回の盆菜宴会で少し感じ取れました。
また機会があれば、ぜひ、お話をしたいです。


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2018/03/25

新界の誕生

イギリス植民地になるの前に、
「新界」という場所本来は存在していませんでした。
1842年、南京条約で清から「香港島」がイギリスに割譲した後、
1860年、北京条約で「九龍半島」も割譲しました。
のちに「新界」になる上記以外の領域、
1898年の展拓香港界址専条によって、
イギリスに99年間の期限で租借された。
つまり、九龍半島を東西に横切る【界限街】以北、
深圳河以南とそのほか233個の島を含めた領域です。
1937年、界限街以北~ライオンロック以南という新興市街地ですが、
イギリス植民地政府から「新九龍」と称するようになりました。
下記の当時植民地政府から発行した地図もこの名称で記載されています。


「香港島」、「九龍半島」、「新九龍」以外の領域に関して、
「新しい領土」を意味する英語「New Territories」で総称されまた。
広東語を訳すると、
「新界」という皆さんも聞き慣れてる香港地域の名称です。
そして、
そもそも「新界」にいる原住民ですが、
中国を統一した秦王時代の生活逸話が歴史書籍に記載されてるそうです。


今でも「新界」のいろな「囲村」に歴史的な遺跡、
当時君主からの贈り物などの記念物もみつかるはずです。
たとえば、この「元朗橫洲」に立地する「二聖宮」というお寺に、
清の康熙帝時代(1718年)に鋳造した大きな鐘が展示されることによって、
この辺りの原住民の歴史を証明する有力の裏付けになります。


「新界」に行くと、
下記写真のような三階建て家屋が多く見られるでしょうか?
香港では「丁屋」と呼ばれます。
実は生みの親は植民地政府でした、
1972年、「新界」で大規模な開拓を決行したものの、
原住民の協力を得ないと成し遂げないと痛感した結果、
年末に「新界小型屋宇政策」を実施した、
1890年代に父方が原住民と認められた人々の18歳以上の男子の子供には、
決められた土地内に一棟三階建て、
各層は700平方ftを超えない「丁屋」の建築権利が与えられます。
一生に一度のみですが、申請すれば、許可を下りてくれるようです。


この「新界」の原住民ならの「特権」に巡って、
政府とデベロッパーの間で近年に争議が起きているほか、
「新界」の原住民の「特権」が社会問題にもなっています。
なぜなら、
「新界」の原住民がいるほか、
「九龍半島」、「香港島」にもそれなりに原住民がいるのに、
なぜ「特権」はないかという素朴な疑問を持ってる人もいます。


返還前の植民地による解釈ですが、
1842年、1860年に結んだ条約では、
「九龍半島」、「香港島」をイギリスに割譲する形で、
租借とは違い、
原住民が自分の土地を強制に徴用したことに対しても反抗できない、
場所が分散されることと数少ない人数によって、
反抗しようがなかったことも考えられます。
「新界」の原住民が如何にイギリス植民政府を反抗したか、
過去元朗の錦田吉慶圍」に関する記事でも多少把握できるはず。
まさにこの違いによって、
「新界」の「特権」が生まれて、
ゆくに「新界」のあらゆる風習が保たれたり、
香港の多様性が見られる理由になったかもしれません。

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